読書

『カネ遣いという教養』藤原敬之・著(新潮社)

僕はブログでモノを語ることが多く、それが「物質主義」的な浅薄さを醸し出していないかという懐疑心に悩まされた時期がありました。そんなときに出会った本が元ファンドマネージャーが著者の「カネ遣いという教養」という本です。

自分が愛でてきたモノたちへの心情の吐露が「教養」と呼べる代物なのかを確かめるために、救いを求めるようにこの本を一気に読みました。

 

「教養」になるものもあれば、「散財」に終わるものもある

著者によると、「教養」とはインターフェースを拡げる、つまり感性の接点が拡がっていくことと定義されています。言い換えると、世界が拡がるとか、人間としての深みが増す、ということなんでしょうか。

著者が挙げた靴のカネ遣い。偶然か必然か私も著者と同じ南青山の骨董通りにあるJ.M.WESTONで初めての高級靴を購入しました。それから靴が足に馴染む過程の体験の描写が全く同じで笑ってしまいました。その後海外出張で、何足も揃えた後にJOHN LOBBを履き、最後にはビスポークに辿り着いた著者の境地はまさに教養と呼べるものでしょう。
靴は自分の体の一部になる過程が「自信と余裕」を与えます。僕も靴にどれほどの自信を与えてもらったか!

一方で腕時計のカネ遣いはどうでしょう?
著者は百貨店の販売担当の言われるがままに、時計を揃えていったと言います。そして、あるとき「憑いていた狐が落ちて」時計への興味を失ってしまったそうです。同じことを服飾評論家の落合正勝氏が書いていたのを思い出しました。落合氏も数本を残して手放してしまったそうです。
僕も時計に関しては、ベルトの素材を交換してコーディネートする方を楽しんでいます。

著者が集めたライカのカメラとレンズに至っては、買った、揃えたというだけで終わってしまっています。そこから新しい世界を覗いた様子は描かれていません。これらは「散財」でしょう。

僕がなるほどな、と思ったのはカネ遣いをすればするほど「収入が追いついてくる」というクダリ。桁外れの衝動的なカネ遣いをすれば、桁外れの収入を得ることもあるということです。これは僕も一定の真実があると思います。経済評論家の山崎元氏も著書「学校では教えてくれないお金の授業」の中でこれに似たことを述べておられました。

この本、Amazonでボコボコに酷評されています。やっぱり鼻に付くのかな?
興味のある方は是非手にとって下さい。

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